あるスピリチュアルな教えは、私達が科学者であってもなくても、初めて聞いた時には大きな混乱をもたらします。1970年代、物理学者フレッド・アラン・ウォルフは「我々が我々自身の現実を創造する」という非常に刺激的な言葉を創造し、それは非常に響きの良いものでしたが、同時に多くの失望ももたらしました。人々はその言葉のせいで夢の車や、砂漠地帯の菜園、混み合った繁華街の駐車スペースなどを求めました。ウォルフの言葉は数学者としての研究をベースにしたものでした。そしてジョン・フォン・ノイマンは量子の可能性の波動がその様相を「選択」し顕在化する時に起こる、意識による「崩壊」という概念を表しました。
しかし、「自らが現実を創造する」という、その後の多くの試みは、さまざまな結果の寄せ集めに過ぎませんでした。なぜなら創造を願う者の多くがある重要なことに気づいていなかったからです。
「我々が我々自身の現実を創造する」そのことに間違いはありません、しかし私達がそれを行うのは「通常の意識状態」においてではなく「通常とは異なった意識状態」においてです。ノーベル物理学受賞者ユージーン・ウィグナーが表した「ウィグナーの友人の矛盾」がそれをクリアに説明してくれます。
ウィグナーは赤と青2色の量子でできた交通信号に向かっています。同時にウィグナーの友人も同じ信号にウィグナーのいる道へと垂直方向から向かっています。そして2人共青信号を選択します(望みます)。しかし彼らの選択は相容れません。もし2人の選択が同時に顕在化してしまうと大混乱が起きます。どちらか一方が選択をしなければいけないのは明らかです。しかしどちらが?
ナルシシズム(自己愛)についての理解は私達が私達自身の現実を創造することについて洞察を与えてくれます。もし世界のたった一人だけがこの世界の知覚者で、それ以外の私達全員はこのたった一人の知覚者の想像の中にのみ存在するとしたら?
3人の物理学者がそれぞれにウィグナーの矛盾を解明しました。オーストラリアのルドウィグ・バス、オレゴン大学の私、そしてニュージャージー州ラトガース大学のケイシー・ブラッドです。その解決法はシンプルでした。ウィグナーと彼の友人が持つ個々の意識の背後では、意識は一つでありノンローカル(注:時空の超越)であり無限です。2人ともが同時に青信号を選択したいと思っても、一つの意識が2人のために選択を行い、混乱を回避します。この一つの意識が選択した、量子の確率計算によって導かれた結果こそが有効なのです。このことからウィグナーと彼の友人は共に50%の確立で青信号を渡ることになります。そして道を渡ろうとする誰に対しても青信号を渡る確率はオープンです。
ウィグナーの矛盾についての理論を構築するにあたって常につきまとう疑問はこれでした。「その下にひもづく因果性(原因と結果の関連性)が自由でいられる、どんな矛盾も発生しない“意識の特性”とは何だろう?」
その答えはこうでした。
「意識は統合的であり、私達全てに対したった一つである。」
この意識のワンネスが私達の理論のベースとなっています。
これについて記した私の論文は1989年に発表され、メキシコ大学の神経生理学者ジェイコブ・グリンベルグ・ジルベルバウムの目に止まりました。彼は当時2人の人間の間で行う、脳の電気活動の伝達について研究していました。私の理論と彼自身の研究との関係を直感したジェイコブから、「自分の実験設備および解釈のもととなるデータを見て欲しい」と研究室への招待を受けました。その後すぐグリンバーグと恊働者達は意識のワンネス理論の現代科学的根拠について最初の論文を発表しました。
朗報となった実験:私達は一つか?
その後、量子意識すなわち下方因果性をもたらす者(注:私たち個々を越えた意識)はノンローカル(時間・空間を超越している)であり統合的であると、4つの別々の実験が証明しました。量子物理学はノンローカル性を運用する上で素晴らしい原理を与えてくれます。ローカリティの原理では全てのコミュニケーションはローカルな信号と限られたスピードによって進められます。アインシュタインが証明した光の速度がスピードの限界です。この理論では信号を経由し瞬間的なコミュニケーションは成り立ちません。しかし量子の物質は出会った時から瞬間的に相互に影響し合い、量子のノンローカル性により相関するようになります。1982年、物理学者アラン・アスペクトと彼の恊働者達は光子ペア(光の量子)によってこれを確定しました。これは時空を超えた無視号の相互連結、すなわち量子のノンローカル性を認識することができれば、アインシュタインの考えとなんら矛盾するところはありません。
1993年グリンベルグは、相関する2つの脳の間における量子のノンローカル性のデモンストレーションに取り組んでいました。2人の人間がダイレクト・コミュニケーション(無信号、ノンローカル)を意図しながら同時に瞑想します。20分後、2人は別の場所に移され(統一的な意図を持ち続けながら)、それぞれ1人ずつファラデー箱(電磁気的に非浸透な個室)に入るよう指示され、頭部に脳波計をとりつけられます。被験者の1人に連続するライトの点滅を見せ、彼/彼女の脳の電気的活動を脳波計に記録します。そしてコンピュータで記録からノイズを除外し「誘発電位」を抽出します。すると驚くべきことに同じ誘発電位がもう一人の脳にも現れ、(同じくノイズを除いた)脳波計でも読み取ることができました。これは「転送電位」と言い、誘発電位と様相や能力において相似します。規制対象者(実験を継続する間、共に瞑想を行わず、無信号コミュニケーションの意図を持たない2人)にはどのような転送電位も認められませんでした。
この実験が脳の反応のノンローカル性を表しているのは明らかですが、同時に量子意識(注:私たち個々を越えたところにある意識)のノンローカル性をも示しています。一方の脳の誘発反応における「強制的」選択が、もう一方の相関する脳の(ほぼ)相似した反応という「自由」選択を導くことはどのように説明できるでしょうか。先述の通り、その後この実験は、1998年ロンドンで精神神経科医のピーター・フェンウィックと彼の恊働者達により、2003年にはジリ・ワッカーマンたち、そして2004年にヴェスティア大学の研究者リアナ・スタンディッシュと彼女の恊働者達により繰り返し行われました。
彼らの実験によりもたらされた結論は革命的であり、ヴェーダンタのようなスタイルで科学とスピリチュアリティを融合させるものでした。「量子意識」、「量子の可能性」によって行われた選択における下方因果性(量子意識の下にひもづく事象の因果関係)を収集する装置は、さまざまな深淵なるスピリチュアルの伝統が「神」と呼ぶものです(サンスクリット語ではイシュワラ)。ある意味で私達は科学の分野から神を再発見したと言えます。しかしこの新しい科学のパラダイムは古い科学のように物質を最重要とはせず、意識を最重要とします。意識は全ての存在の足場であり、ヴェーダンタの精神的伝統ではブラフマンとして認識され、深遠なキリスト教では神やキリストと呼ばれるものです。
意図の力
グリンベルグの実験は意図の力も示しており、これについては超心理学者ディーン・ラディンも研究を行っていました。ラディンの実験の一つにO・J・シンプソンの裁判が行われている間に実施されたものがあります。この裁判はテレビで放映され多くの人がそれを観ていました。
ラディンは「鑑賞者の意図が、裁判所でのやりとりが緊迫しているか/退屈かによって大きく変動する」という仮説を立てました。彼はこのことは乱数発生器にも影響を与えるのではないかと考えました。ラディンは心理学者のグループに裁判所のやり取りの緊迫感をそのまま描写し書き取るよう指示しました。一方、研究室でラディンは乱数発生器の偏向を調べました。そして裁判所が最も緊迫した瞬間に乱数発生器の偏向が最大となることを発見しました。これは何を意味するのでしょうか?哲学者グレゴリー・ベイトソンは「無作為の対義語は選択だ」と述べています。この相関関係が証明するのは意図の力が持つクリエイティビティです。また、ラディンが行った他の実験では、人々が集まり瞑想を行った時の方が企業の理事会より乱数発生器に偏向が見られたのです!
今皆さんは、「どのようにしたら意図の力を発揮することができるか?」を考え始めたのではないでしょうか。私達は誰もが意図を通じて物事を成そうとします。上手くいくこともありますが、しかし成功しないことの方が多いです。なぜなら私達は何かを意図する時、高次の意識ではなくエゴに捕われているからです。しかしどうやってそれを変えることができるでしょうか?
私は4ステージのプロセスを提案します。意図はエゴからスタートします。なぜならそこが私達が通常いる、ローカルで自分本位な場所だからです。第2ステージでは私達は自分本位を超え、全ての人達に対して意図します。心配することはありません。何も失うことはありません。私達が「全ての人」という時、そこには私達自身も含まれています。第3ステージでは私達の意図を祈りへと変化させます。私の意図が全すなわち量子意識の意図と共鳴するならば、それを達成させます。第4ステージでは祈りは沈黙に、そして瞑想へと至ります。
皆さんの中に映画『ザ・シークレット』をご覧になった方や、同タイトルの本を読んだことがある方がいらっしゃると思います。映画では私達の意図をアファメーションすることについてのシークレットを描いています。このメイン・メッセージは良いと思います。映画と本が伝えていることですが、アファメーションとは積極的に意図するだけでなく、受動的に待つことを学ぶことでもあります。意図された事象は私達のもとに自ら訪れるでしょう。ですから私は「最後は沈黙し待つこと」を推奨するのです。
しかし私達は長く待ちすぎてしまって、何を意図したのか見失ってしまうかもしれません。ですから短めに待ち、再び積極的に探求します。アファメーションについての本当のシークレットは、行動することと、あるがままであることの間を行き来することです。私はこれを「do=行動/be=あるがまま」から「ドゥ・ビー・ドゥ・ビー・ドゥ・ライフ」と時々呼んでいます。インドでは多くの人が、あるがままばかりの「ビー・ビー・ビー・ライフ」を送っているのは皆さんご存知でしょう?一方アメリカや西洋社会では、行動ばかりの「ドゥ・ドゥ・ドゥ・ライフ」です。意図の形成を経由し、アファメーションの達人は「ドゥ・ビー・ドゥ・ビー・ドゥ」すなわち中道を歩みます。
最後のシークレットがあります。私達はどうやったら意識が何を意図するのか知り、私達の意図をそこに沿わせることができるでしょうか?答えは「創造的な進化」にあります。意識は私達全員が創造的進化を通してより良い方向へ向かって進化することを意図しています。